諸塚村と、お米と雑穀のお話

諸塚村で米が積極的に作られるようになったのは明治に入ってからと、わりと最近。
それ以前はわずかな田畑しかありませんでした。

“ 米は全部、肥後・延岡方面からの移入であり、普通の村民は口にする事が無かった ” と諸塚村史にあるほど。
お米を食べられるのは、病人か冠婚葬祭・盆正月などの特別な時だけだったそう。

「お米の音を聞けば病気が治る」とお米を振って音を聞かせたりしたというエピソードもあったりして、どれだけ村の人にとってお米が大切だったかが良く分かります。

 

その頃の主食と言えば、麦・アワ・キビそしてトウキビ等の雑穀と芋、豆類。

重労働を粗食で支えるため、1日に6回も食事をしていたんだとか。

平坦地が少なく傾斜面ばかりであったため、村内の山林では焼畑が行われ、雑穀が収穫されていました。

1年目はソバ、2年目はアワ・ヒエ、3年目は大豆・小豆。土の力が落ちると、次の山を開き15~20年置く循環農法の焼畑は、多くの労力を費やす割に収穫は少なく、台風や日照り、虫などで不作になることも多かったようです。

そのため、水田による米作りは農民にとって待望の的。
急峻な山を開墾し、石垣を積んで平らな農耕地を作りさらに水を引いてくることは、どれだけの労力が必要だったのでしょうか。

焼畑の終わりと継がれる種

水田に力が入れられるようになると、焼畑が行われることは珍しくなっていきました。

主食は雑穀から米に変わり、気づけば諸塚村でずっと作られてきた在来の雑穀の種は “アワ・昔とうきび・高キビ・そば” など、4種類程しか残っていない状態に。

その中には、「種を継がなければ」と細々と作りつづけられてきたものも。

消えたと思われていた雑穀にも、また新たな物語が始まっていました。(種を継ぐプロジェクトについて興味がある方は →こちら )

 

今や貴重なものとなった雑穀。

絶やさずに作り続けている村の方に、お話をうかがってみました。